今回は、気まぐれな日記記事です。
最近、ふと思います。
「ぼくは一体何のために生きているのだろうか。」
本当にしたいことは何か。時々分からなくなることがあります。
というか、今もちょっと迷子です。
自分の中に燃えたぎるような情熱や衝動がある時は、生きている感覚を得られる。
生きる意味を見出せている瞬間だと思うんです。
でも、そんな情熱や衝動が薄らいだとき、あれ?ぼくは何で生きているのだろうって。
そう感じてしまうのです。
でも、それって本来当たり前のことなのかもしれないです。
情熱や衝動はガソリンみたいなもので、ぼくらを熱く走らせてくれる。
ガソリンもなくなれば、走れない車みたいなもので、走れなくなったとき僕らは何で生まれてきたのだろうと問うことになる。
それは至極当然のことに思うのです。
「なんだ、ガソリンがなくなっただけだったんだ。」
そう思えたら、だいぶ心が楽になる気がします。
そう気付けたら、あとは「ガソリンを追加する方法」、これさえ分かれば走れます。
車であれば、ガソリンスタンドだけど、ぼくたちの場合は何なんだろうか。
今や電気自動車や水素で走る車もある。色んな形があるのかもしれないし、
自分なりの燃料がきっとあるのだろうと思う。
そう考えると、燃料の追加方法はきっと沢山あるんだろうけれど、
やっぱり燃料が追加されやすいのは、人と触れ合うときや、人に感化されるときだったり、
課題を見つけたとき、理想を描けたとき、叶えたいゴールや目標が生まれたとき、そんなときだと思うんです。
ぼくたちは意外と単純で、意外と短期間で燃料切れする生き物なんだと思うんです。
燃えたぎるようなモチベーションを維持するのは、とても難しいことで、自分ひとりで燃料を追加するのはかなり困難なことだと思うのです。
でも逆に言えば、常に薪木を足してくれる友人や環境があれば、最高の生き心地を得られるんだと思います。
自分が灯す火を、より大きくしてくれる、そんな仲間や環境を是非見つけたいですね。
やっぱり人間は、一人ではいつか火が消えてしまう生き物だと思います。
陽の世界に生まれた人間は、自分一人では燃えることができない火のような存在だと、つくづく思いました。
なんだかとりとめのない内容になってしまった気がしますが、今の自分の状況が少し整理できた気がします。
もしどこかの誰かの参考になれば、幸いです。では。