腕時計が不要でダサい理由を徹底考察(腕時計不要論)

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そもそも腕時計が要るかどうかについて考えたい。

いきなりだが結論としては、不要ではないかというのが私の考え。

その理由について述べるとまず、左右非対称になるというのがある。

右腕と左腕でアンバランスになる。身体のバランスが崩れる。

そして蒸れる。衛生的にもメリットはない。

さらに機能としての必要性も薄い。時間の確認はスマホを見れば可能。

生活必需品になったスマホがあるこの現代において、わざわざ腕時計をする必要性がない。

勿論商談中やフォーマルな場面など、スマホを見ることが憚られる状況を除いては。そういうシーンを主戦場にしている人にとって重要なのは理解できる。しかしそうでない人にとってはスマホを見ればいいのでは?となる。

これに対する反論の理由一位があるとすると、ファッションアイテムですよというのがあるだろう。

別に否定しない。自己表現は自由だ。

しかし前提として、表現には意味や伝えたい世界観があって初めて成立するという性質がある。

つまり、腕時計を付けるならそこに意味や世界観を支える理由や根拠がないと、表現として成立しない

説得力や、それが本物であると感じさせるオーラは、そこの有無が大きく関わっている。

現代のファッションは形から入るものが多い。

それはただの記号であって、表現ではない。

腕時計をかっこいいからという理由だけで、付けるのは私からすれば浅はかである。

これを踏まえ、さらに不要派として私の論を進めよう。

その主たる論拠として、時間を確認するという行為そのものへの懐疑がある。

時刻という概念は人間がこの世界の進行速度を定量的に把握する為に生まれたものだが、その根源としての時刻という概念は、他者と世界線を共有するニーズに起因して生まれたのだろう。集合時間やイベントの開始時間など。

そして、次に時間間隔にシビアな類のもの。薬の服用、料理など。

ただ、これらというのは先にも示したようにスマホで解決する。

だから機能的な意味合いにおいては腕時計は不要である。

もう少し時代的な話も踏まえると、今はむしろ時間という概念に強烈に支配された社会になっている。

インターネットが普及し、全世界と皆が繋がった社会になり、
より一層時間というものの共有の必要性が必然的に、そして無意識的に高まった。

普通に生きているだけで、時間に縛られる生活になった。

しかも日本は特に時間に厳しい国である。電車も一分単位で正確にやってくる。

他者と生きる空間を共有する為に時間というのは必要な概念だが、その傾向が強くなりすぎると、自分という空間が失われていく。気付いたら全て他人に合わせる生き方、他人本位な生き方になっている。なんてことは往々にしてあるのではないか。

そんな社会の中で、さらに時間を意識させるアクセサリーを身に付ける必要性がどこまであるのか

そうまでして他人本位な世界線に自分を生かしたいのか。

私は否である。

自分の空間というものを大事にしたいし、自分の感性や心を失いたくない。正直に生きたい。

定規に沿って生きるのではなく、気持ちのままに自由に曲線を描きながら生きていたい。

その象徴として、腕時計を付けないという選択肢を私は推したい。

身に付けないというお洒落があってもいいんじゃないか。

ってね。以上。

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